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島原の乱 at 時空警察 [感想]

日本テレビの時空警察Part.5を見ました。

この番組、好きで一番初めから見てます。
番組中に登場する資料が実在するっていうのがとても興味深いです。
そこからどう話を膨らませるからは、
作り手のやり方ヒトツで変わってきちゃいますけどね。

今回は島原の乱を取り上げてました。
私は歴史とか詳しくないですが、
12月にちょうど新感線★RX「SHIROH」を見てきたので
興味深く見てました。

●島原の乱の中心人物である、
天草四郎時貞が、豊臣秀吉の孫だった、という仮説。

まぁ、九州で見つかった秀頼の墓、とか
色んな事実から導きだした仮説だとしても
びっくりな事ですよねぇ。

番組を見ていて一番ショックだったのは!!!
「島原の乱の3万7千人がバチカンの殉教者記録に載っていない」
ってこと。
公式に殉教者として認められてないんですね。

もし時空警察で仮説としてあげているように
四郎が豊臣秀吉の孫、もしくは血縁で
島原の乱が、彼としては政権奪還の為の戦いだったとしても
下についてきていた農民達は、ただのキリシタンであったろうに。
彼等の気持ちは全部認められてないって事なんでしょうか。

なんだか切なくなってしまいました。。。(ToT)

謎に包まれているからこそ色んな仮説が出るんでしょうけど
全てが明らかになったら、
意外な事実が出てきたりするのかもしれませんね。

その次の話でやってた、ヒトラーの話も
ちょっと面白かったです(^o^)

次の放送も楽しみに待ってますっ★


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浜崎秀達

 はじめに

 源義経が蒙古に渡り、チンギス・ハーンになったとか、アドルフ・ヒトラーが南米に亡命したとかいう話さえある。真田幸村がベトナムにわたってゲリラになったという話もある。西郷隆盛や坂本龍馬などにもそうした話はある。こうした荒唐無稽な遺聞は別として、真田幸村の薩摩落ち伝説がある。
 真田幸村の薩摩落ち伝説は、他の伝説と違い、歴史的な背景があり、多数の記録や伝承が存在する。荒唐無稽な遺聞や異説とは事情が異なっている。火のないところに煙は立たない。およそ歴史そのものが勝者の歴史であり、敗者のそれは都合のいいように歪曲されたり、抹殺される憂き目に合うのが常である。これは、歴史家であるなら誰もが心得ていなければならないはずである。
 桃太郎伝説は、出雲の渡来人が作る製鉄技術を手に入れようと、大和朝廷の皇太子が侵略したのが実態であり、侵略を正当化するため、渡来人を鬼に見立てた。また、「日本書紀」や「古事記」では、渡来人の政権である大和朝廷が、先住民族の熊襲や蝦夷を侵略していった過程を正当化するため、ヤマトタケルの尊という架空の人物を使って自分たちに都合のいい神話を作り出した。
 歴史の裏には必ず“隠れた歴史”が存在する。正史である水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽(江戸後期の儒学者・史家。名は襄〈のぼる〉。安芸の人。父は春水。江戸に出て尾藤二州に学ぶ。諸・書もよくした。著『日本外史』『日本正記』『日本楽譜(がふ)』『山陽詩鈔』など。1780~1832年。)の日本外史は後世に伝えている。真田幸村の薩摩落ち伝説も、為政者に都合が悪く、抹殺、隠蔽された歴史の一つである。
 長年実在が危ぶまれていた中国の「殷」や「夏」の遺跡が発見された。ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイの遺跡も発見された。伝説とばかり思われていたものが本当の話であったことが判明することはよくある。伝説がいつかしか実在するものと証明されるかもしれないから、伝説だからといって、抹殺してしまってはならない。

 真田幸村生存説は抹殺された

 真田幸村による秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 これに基づき、『真田三代記』という草紙本では、前もって、影武者である穴山子助を真田幸村として敵の陣中に売り込んでおいて、さて開戦となると、何人かの影武者に自分と同じ服装をさせて、次から次へと戦場に送り込んで、さんざんに敵を惑わせたとされている。智将真田幸村のことだから、豊臣秀頼や真田大助の身代わりを立てて、千飯倉に籠もらせ、夜に掘割伝いに川筋へと小舟を漕ぎ出して、海上へ逃れ、その後、薩摩へ落ちのびたとも考えられる。
 小林計一郎(現・長野県郷土史家協会名誉会長)は、「真田幸村は一方の総大将として大阪に死にに行った」とする説を展開して、真田幸村の薩摩落ちを否定した。しかし、当時の資料を見ると、真田幸村は総大将ではないし、戦に勝つための手を講じようとしたが、大野兄弟の反対によって思い通りの戦をすることはできず、やむを得ず次善の策を講じて勇名をはせたのであって、決して大阪に死にに行った訳ではなかった。長野県で唯一の英雄・真田幸村が生きていては都合の悪い長野の人たちによって真田幸村生存説は抹殺された。
 しかし、影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち死にしたのは影武者の一人であったとするのが自然である。むしろ、討ち死にしたとする方がおかしい。影武者は「我こそは真田左衛門輔」とか、「真田幸村の倅」とか大声で名乗っていた。写真のなかった当時、まだ無名だった真田幸村や真田大助について本人かどうか確認できなかった。本人は身分を隠しており、真田幸村が討ち死したとする説は決定的な証拠を欠いている。証拠不十分だから、長野県人の受け入れやすい理屈を展開した。つまり、学問的手法ではなく、政治的手法で抹殺した。それが実態である。
 両論併記という本来の形に戻し、更に調査・研究を進めていくべきである。

 大阪冬の陣

 東西の武力衝突によって決着をつけなくては、家康政権を完全なものにできない。豊臣家を完全に葬り去らなければ、禍根を残すことになる。家康はそう考えた。
 徳川家康との手切れを悟った豊臣秀頼が、諸国に兵を募ったのは、慶長19年(1614)10月であった。これに応じて、真田幸村らは、大坂城入りを果たした。
 当初の軍議では、「急遽、宇治・瀬田の橋を落とし、川船を焼き、敵陣に間者を送り込み、離間策を用いれば、敵は相互不信に陥る。そこで、一気に攻めたて、その上で、神出鬼没の強襲を繰り返せば、敵はおのずと崩れていく」という瀬田川出撃策を提唱し、籠城戦を否定した。後藤又兵衛ら浪人の大方がこれに賛成した。しかし、秀頼に従う譜代の臣は城に期待を寄せるあまり、よそ者である幸村の献策を拒絶した。 
 主将格の大野治長は、籠城戦を強行した。
 大阪城の西は海、北は天満川、東は沼地だったので、丘陵地帯の南だけが戦場になることは始めから分かっていた。そこで、幸村は、出丸をそこに造ることにした。軍議でこれが了承され、真田幸村は、真田丸という一種の「馬出し口」を造って、奮戦した。これは、一種のトーチカであることが最近の発掘で分かった。日露戦争の時、乃木大将が203高地を攻めた際、ロシア側がトーチカ作って奮戦したため、日本側に甚大な死傷者を出したが、真田幸村は戦国時代に既にこのトーチカを造っていたのである。
 この真田丸は、大阪城二の丸西南門の南方に当たる高台の畑地に設けられた。三方の空堀を堀り、塀をめぐらし、塀の外と空堀のなか、それに塀の外とに三重の柵を構え、随所に矢倉や井楼を設け、塀の腕木の通りには幅七尺の通路を造って行動を自由にした。総構の外に出ること40間(72メートル)、東西に長く南北に短い新月型の砦だった。
 真田丸の正面には、加賀百万石の前田利常が陣取り、その後方に徳川秀忠の本陣があり、秀忠陣の左手茶臼山には家康が陣取っていた。
 当時の地図によると、真田丸の前方は篠山という小山だった。そこに毎日真田勢が現れて鉄砲を撃ちかけるので、前田勢から死傷者が続出した。真田勢の射撃は正確だった。おそらく九度山から幸村の従ってきた漁師だったのだろう。真田勢は前田勢が聞き取りかねる方言で囃したてた。意味は分からずとも、その調子からして、挑発の愚弄だということは理解できた。
 徳川父子から注目されている前田利常は真田勢の挑発と分かっていながら、功に逸った。真田丸に忍び込ませていた間者の働きで、内奥者が出る手はずにもなっていた。前田勢は3日の夜から出撃の準備を整え、4日の空が明け始めるのを待ちかね、真田丸に攻めかかると、やがて砦の中で大爆発が起こった。
 真田の射手が火薬桶の中に誤って火のついた火縄を落としたための大爆発だったがが、前田方はそれを内応の合図と取り違えた。ここぞとばかりに兵を進める前田勢に、他の諸隊も遅れてはならじと軍令を無視して遮二無二攻めかかったので、徳川方は幸村の冷静な采配の餌食となって、さんざんに打ち負かされた。

 大阪夏の陣

 家康は、主な浪人の切り崩しを行った。飢えた浪人には、法外な知行で誘いをかけた。幸村にも、城を出て徳川に属したら、信州で10万石を与えると誘いをかけた。家康側近の本多正純が責任を持って幸村の身を保証すると持ちかけたが、幸村は、この誘いをあっさり蹴った。そうすると、今度は、家康から信州一国との誘いがかかった。しかし、幸村は、これまでの家康の所行からして信用できないので、これも断った。
 4月13日の軍議で、幸村は、秀頼に出陣を促し、まず伏見城を攻め取ることを強く求めた。外堀のみならず内堀まで埋めつくされてしまったことから、大阪城が物の役に立ちそうにもないので、新たな城を求めたのだった。さらに、幸村は、宇治・勢多に全軍を集め、徳川勢を迎え討つ間に、秀頼の上洛を勧めた。群議の席に列した浪人あがりの客将たちも、幸村の考えに賛成だったが、出頭人の大野治長が応じなかった。
 5月6日、幸村の軍勢は、赤一色の軍装で統一されていた。幟も差物も、全て赤だった。このとき、信幸の立場をおもんぱかって六文銭は一切使わなかった。この真田の赤備えが、道明寺口の激戦場から城に引き下がる大阪勢の殿をつとめた。
 5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」は違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。
 5月7日、幸村は、茶臼山に早々と陣を布いた。視察に現れた大野治長に、今日こそ、と幸村は秀頼の出馬を求めた。「さすれば、士卒の意気も上がりましょう。なお徳川方が城の北西、天満・舟場へ攻め寄せることはまずないので、その方面の明石掃部助を敵の後方へおまわしください。明石の狼煙を合図に幸村が家康の本陣を襲い、その虚に明石勢が家康の背後を突けば、きっと勝てます」と。治長は承知してその場を去るのだったが、いつまでも秀頼が出てこないので、幸村は、「総大将秀頼が、みずから千生瓢箪の馬印を掲げて出馬すれば、志気は一気にあがり、自軍を勝利へ導くことも可能となる」と、息子大助を使いにやった。
 真田勢が3、4回激しく攻撃したので、将軍秀忠は、次第に敗退し、その部下の多くが列を乱して逃げ出すのを見て、家康は、退却の準備をし、自ら敗走者の跡を追おうとしたことが数回あった。その度に、側近によって引き止められた。このとき、さすがの家康も観念し、腹を切ろうとした。しかし、大阪方が少し弛めたので、戦局は、たちまち流れが変わり、切腹を取り止めた。家康の本陣が総崩れとなったとき、家康の側に踏みとどまった騎士は小栗忠左衛門久次一人だった。
 大阪の天王寺区六万体町に元真田幸村の邸宅と称する所があって、そこに真田山に通じる長い抜け穴があることが発見されている。後述のように、真田幸村や豊臣秀頼らが大阪城を脱出するとき、ここを使ったのかもしれない。そして、影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち取られたのは影武者の一人にすぎないと考えられる。幸村の影武者は「我こそは真田左衛門輔」と、大阪城にいた大助の影武者は「真田幸村の倅」とそれぞれ大声で名乗っていた。影武者を使ったくらいだから、どちらも本人ならむしろ身分や名前を隠すはずである。写真のなかった当時、まだ無名だった真田幸村や真田大助について本人かどうかとうとう確認できなかったというのが実情である。

秀頼、幸村の大坂城脱出

 大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられている。というものの、過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにした。おそらく、徳川に改易にされそうになったときの隠し球にしようとしたのかもしれない。島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに真田幸村・大助親子、豊臣秀頼、木村重成らを密かに救い出したのである。家康が河川の多い低湿地帯となっている大坂城の北西方面に手厚い陣を布けなかったことを幸いなことに、真田幸村や豊臣秀頼らは、島津家の家臣伊集院半兵衛が京橋口から忍び入れた小舟に乗り、急流に乗って一気に川口まで下って本船に移った。夏の陣の頃は梅雨の季節で、大和川(寝屋川)、平野川や淀川はなみなみと水をたたえ、その合流した急な流れに乗ることができた。
 この秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 鹿児島県揖宿郡における伝承によると、真田幸村らは、和歌山方面から、島津の軍船に乗って、鹿児島湾(錦江湾)に辿り着いた。幸村は、この時、親鸞上人が書いた直筆の掛軸、秀頼から頂いた「おねぐい」の鞍などを鹿児島に持ち込んでいる。
 大坂落城のとき、大坂城の北、天満方面にはほとんど東軍の姿はなく、城兵は自由に逃げ出せる状態にあった。参戦したら、北方、西方に配置される予定だった西国方面の大名はほとんど戦に間に合わなかったのである。7日の夕方落城し、翌日にはすでに京都あたりへ大勢の落人が逃げのびていった。名のある武将で逃亡した者も少なくなかった。その中でも、長曾我部盛観、大野道犬治胤、秀頼の息女(7歳)、息子国松(8歳)らは逃亡中捕えられ、尼にされた秀頼の息女と国松を除き、みな殺された。
 国松は、北の政所ねねの実兄・木下家定(大分県の立石藩主)に預けられ、木下家定の子として、そこから分家し、日出藩中興の祖・木下延俊となった。真田博明氏は、これを「公然の秘密」と述べていた。
 豊臣秀吉から豊臣姓を称することを許されていた真田幸村が秀頼とともに薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と京童に歌われた。実際には、秀頼は背丈が6尺5寸(1メートル97センチ)で、水戸泉のような体格をしており、酒好きであった。逆に、幸村の方が小柄な優男であった。
 当時のイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
 また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると、「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えている。

 秀頼、幸村の薩摩入り

 『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。
 後藤又兵衛は、揖宿郡頴娃町大字別府字耳原(みんばい)に住み、真田幸村は、同町大字牧之内字雪丸(ゆんまい)に住んでいた。幸村の墓は雪丸にある。ここの「くりがの」小学校にその記録である郷土史が保管されている。
 雪丸(幸村がいたことから、雪村(せっそん)と呼ばれたが、のちに雪丸と呼ばれるようになった)に辿り着いてから、真田幸村は、息子大助を「秀頼公をどうしてご出馬さ.せることができなかったのだ!!」と大声で叱責した。大助も負けずに反論したため、口論となった。両方ともとてつもない大声で口論しつづけていたため、地元の人間はみな驚き、不可思議に想った、と在地の伝承は伝えている。
 肥前平戸藩主、松浦静山の随筆である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、真田幸村について、次のように報告している。谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものがあることを当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、真田幸村や豊臣秀頼についての記録を残している。

 幸村と信幸の書簡

 『甲子夜話』は、信幸は、真田三代記に真田幸村の薩摩落ちが語られたことから、頴娃の幸村(信繁)と目されるこの人物に使いをやったが、使いの問いに対して、幸村は、落ち延びた身であり、使いが本物かどうかも分からないので、間者かもしれないと疑心暗鬼になり、自分が幸村であるとを認めることができなかった、としている。
 真田幸村は、ここに住んでいるとき、松代真田家の藩主の父として生きている信之(信幸)と何度か手紙を交換していた。真江田家(難波家)では、真田幸村が真田信幸に幾たびか手紙を出したという言い伝えがある。また、真江田家(難波家)には真田信幸とやりとりした手紙が大事に保管され、現在も残っている、と言う。
 真田家の重臣・玉川家の配下の同心(足軽)某は毎年、伊勢代参と称して上方へ上った。その出発の前夜は、玉川と夜の明けるまで密談して出かける例で、しかも、ふつうの伊勢代参より7日も10日もよけいの日数がかかるのであった。同心の女房はそれを不思議に思っていたが、夫が重病にかかって命旦夕に迫ったので、「何十年も連れ添いながら、秘密をかくしておられるのは口惜しい。のこりなくお話ください」と責めた。そこで、その同心が妻に物語った次のようなことだったという。
 「ある年、玉川の旦那の供をして伊勢参宮に行ったが、参宮ののち、熊野の裏山の方へ行き、2日ほど家も道もない所へ分け入ると、洞窟の前へ出た。玉川の旦那は私を口元に残して、一人で奥深く入っていかれた。さて、その後は毎年、伊勢代参の名目で私一人がそこへやられる。いつも状箱一つ持って行く。その状箱の上には『上』とばかり書いてある。岩屋へ着くと、内から白髪総髪で、髭が帯あたりまで下がっている七十余ほどの老人が出て来て、無言のまま状箱を受け取り、一夜過ぎてのち、返礼らしく、その状箱を封じ、上に『参る』とばかり書いて渡す。それを持って来って玉川の旦那に渡すと、任務は終わる」
 真田博明氏が松代藩当主・幸俊真田宅を捜したが、手紙は残っていなかった。幕府が松代藩を改易する口実にすることを恐れて、届いた手紙を残さなかったのかもしれない。実際、松代藩は、石田三成からの誘い状を残していたが、幕末までずっとかたときも厳重な見張りを怠らず幕府に漏れないよう細心の注意を払い続けたくらいである。そのための見張り役もいた。

 真田幸村の隠密旅

 真田幸村が隠密に諸国を旅していたらしいことが、その足跡から分かる。
九度山善名称院(真田屋敷)の尼の物語──大坂落城後、元和2年の正月から、年毎に侍が一人来て、九度山の真田昌幸の屋敷跡を拝し、村内の幸村旧縁の家に一泊して帰るということが9年間続いたという。10年目からは来なくなった。この侍は幸村の参代で、幸村が10年目に死亡したために来なくなったという。
 奈良屋角左衛門の話──真田幸村が蟄居時代にいた九度山に程近い橋本に奈良屋角左衛門という商人がおり、時々九度山の幸村のもとに来て碁の相手をしていた。幸村は大坂入城の時に碁盤を角左衛門に与えた。大坂の陣の翌春、幸村の馬の口の者が奈良屋に訪ねて来て、「相変わる事はないか。我らも無事だ。」と幸村の口上を伝えた。それから5年間は年毎に口の者が来たが、6年目からは来なくなったという。
 飯田氏──秋田県大館市の浄土宗一心寺に幸村の墓がある。ここでは幸村は飯田氏と姓を変えている。秀頼が没すると幸村・大助父子は、その冥福を祈るため、諸国の霊場を巡礼し、北陸路から奥州路に入った。幸村は、ここでの俗名は市兵衛といい、寛永18年(1641)に76歳で没した。子の大助は元禄4年(1691)に89歳で没している。飯田姓を名乗るようになったのは、凶作の時に多くの金銀を藩に献納した功により名字を許されたので、故郷の地名にあやかったのである。上田ではなく飯田にしたのは幕府に遠慮してのことである。

 豊臣秀頼の逸話

 谷山には、昔からある言い伝えがある。それは、秀頼が大阪から出航して薩摩に上陸した地点は、障子川の河口であり、しばらくはその南にある古屋敷に住んでいたが、その後、木之下に移り住んだというものだ。
 秀頼は島津家では手厚くもてなしていたが、なにしろ六尺豊かな大男で、酒好きである。おまけに酒癖が悪く、度々乱暴な振る舞いもした。 
 上記の『甲子夜話』によると、「大坂も落城し、徳川の天下も定まったのだかち、秀頼が生きているのはわかっていたが、ほおっておいたのだろう」としている。また、「秀頼薩摩に行(きし)後、大酒にて処々にてこまりたり。酒の負債多くありしと」ともしている。
 秀頼は大男で、身長6尺5寸もあって酒好きだったそうで、身分を隠していても行動は目立つ。生まれてこのかた金銭の支払いの経験もないものだから飲食しても払いもせずに店を出てしまう始末である。無銭飲食を谷山では「谷山犬の喰逃げ」というそうである。この言葉の起源は豊臣秀頼の無銭飲食にあるらしい。
 この「谷山犬の喰逃げ」については、「薩摩風土記」「甲子夜話続編」にも記録があり、この方言は歴史家たちの興味をそそったようで、東京帝国大学教授の星野博士は、明治25年(1892)『史学雑誌』にこの方言についての由来を寄稿していた。
 高柳博士という学者も、さらに、それを調査・研究し、その意向を発展させ、大正14年(1925)『中央史壇』に「豊臣秀頼薩摩落説」を発表したほどである。
 そうした秀頼生存説を主題にした小説も数多く発表され、著名なところでは、大佛次郎の「生きている秀頼」「月の人」などがある。

 真田大助の行方

 真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となった。明治維新後、島津斎彬の孫で、忠義の子久範はこの佐土原島津家を継いだ。久範の二男久永は、近上天皇の妹清宮貴子を嫁にし、禎久という子を儲けている。久永は、現在、ソニーの取締役をしていた。島津久永、貴子、禎久の3人は、小和田雅子さんが皇太子妃に正式に決定してから催された小和田家、天皇家の親戚を集めての夕食会には、皇族として出席した。
 この件については、佐土原町に問い合わせたところ、郷土史家もそのような話は聞いたことがないということであった。年代も若干ずれており、何よりも、真田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は既に亡くなっており、父・秀男が曾祖父や秀頼の子孫から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。真田大助については、別の記録もある。
 真田大助の子孫と称する旗本があった。蓮華院月牌帳によると、享保12年、江戸の旗本、従五位下滋野正周(八木主税助)という者が大助の位牌を立てているが、それによると、大助はのちに長佐衛門と称し、慶安4年(1651)7月20日に死んだという。「八木系図」によると、大助は落城後堺に住んで高井長佐衛門と称した。その子・平右衛門元理のとき将軍家綱に召し出され、その子・正周は綱吉に信任されて千五百国にまで累進した。『寛政重修諸家譜』には、八木は滋野氏の条に納められているが、真田大助の子孫だとは書いていない。たぶん編集者があやしいと思って削ってしまったのだろう。また、讃岐木田群井戸村の名族真田氏は、この地に逃げてきた幸村の子孫だという。
 秋田県大館市では、真田大助は、はじめ「真田長佐衛門幸昌」と称したが、のちに「信濃屋市兵衛」と改め、89歳で死亡、一心院に葬られたという

 真田幸村の頴娃潜入(傳説)

 頴娃村郷土史では、次のように記述されている。
……(前略)……
 其の大阪一乱後わが薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、大谷吉嬴(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし(古老談)直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するし(伝説)したから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたことだらう
 「薩藩舊傳集」には
 木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、囲碁に耽る、萬治二年六十二にて死す、加治木安國寺に墓あり、書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
 また「薩摩風土記」には
 鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系図ありといふ、木村權兵衛という人あり、これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、同所仲町につさやあり秀頼の書物ありと云々
……(中略)……
 尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を芦塚大左衛門と呼び、其の子の大助幸綱を芦塚中左衛門と呼び又その孫を芦塚小左衛門と呼んでいたさうである(鹿児島外史)さうして眞田幸村の子大助幸綱は後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子天章四郎豊禎(或いは天草四郎時貞に作る)を惣大将に押し立てて、前肥島原にキリシタンの大騒動を捲き起こした大豪傑であつた
 眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、必ず禎祥ありの義に拠つて名づけたものである
 其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程大豪傑で、その聡明雄略まことに倫を絶し、其の時わづか十四歳の若僧ながら馬を一陣に進めて、三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が木下籐吉郎時代の武者振りを其のまゝ目に見る如き心地して、敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと感嘆措かなかつたものだつた
 だか、其の神童天草四郎豊禎も、天下の大軍にはとても敵対出来るものでなく、彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は幕将松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から十重二十重に攻め囲まれ遂に元和二年二月二十八日もろくも落城した、其の時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、得意の幻術を使って島原一園、黒暗々の大魔界となし其の隙は四郎豊禎以下の残党を薩摩に逃げさせた
 天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、代々百姓となり、然も其の家には豊臣秀頼が遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を襲藏したものだつたまた眞田幸綱の子孫は山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、其の六曜星を俗間では六文銭と誤まり傳へてゐる
 ところで―頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある、土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた
 でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった、さうすると間もなく月満ちて、其の女は産の紐を解き、丸々と太った玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、苗字帯刀を許された男である、さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、其の姓名を眞江田三左衛門といふ其の眞江田は眞田をもぢつたもので、三左衛門は左衛門をもぢつたものである、若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、一廉の武士にでもなつて居るべき筈である

 谷山の歴史

 谷山市史では、次のように記述されている。
 谷山市下福元町木之下部落に豊臣秀頼の墓と称するものがある。多宝塔で、塔身は円筒形、高さおよそ二メートル円筒の直径六十二センチメートルである。
 西藩野史には「秀頼の臣堀内大学助藤原右京亮竊に隅州加治木に来り密に入に語て曰、聞く秀頼君偽て大坂城に死し亡命して薩陳の間に匿と、故に来りてこれを求む。或説云時に薩州谷山に来り居る者あり、背高くして色白し、顕貴の相あり、邑人疑て秀頼ならんといふ。子孫あり農民たり、此ところ称して木下門という。」と書いて秀頼の亡命説をとりあげている。
……(中略)……
 「薩摩風土記」上中下二巻のうち下巻にも秀頼のことを載せてあるが、「異本薩摩風土記全」には絵図を二か所へ入れて、次のように記してある。
 谷山の町はつれに木下角という処あり、赤松の大木の下に五輪の塔あり、両面に公家束帯の像あり、こけむして誰の石碑というをしらす。大坂の人々此辺に住浪人姿にて世を送るとみへるなり。俗にいいつたへには、秀頼たいてう中町をあはれあるくとゆふ殿より仰渡されハ此御人に一切無札のなきよふにとの御触にて人々其なまよいを児侯ヘハにけるとこ去れ秀頼公なるへしと云。今に谷山よいくらゐハ武家にもらぬやうに、にけかくれするなり、あヘハとちうにても無心をゆいかけこまるといふ事なり。上町の地蔵堂は秀頼公乳母子老母とあとをとむらひ堂立朝夕回向を仕たる地蔵とも云なり。上町右地蔵堂の裏に池の権現とゆふ石墓あり、八ケ年跡より京絵図人のこつをほり出す、是も大坂人の品者といふ。又下町の上方問屋に長門守跡系図存といふ木村権兵衛と云人有リ、是木村、下町納屋通上に山口氏の八百屋あり真田の末と云う、紋六文銭を付すなり。同所仲丁にかつさや有なり、秀頼の書物ありという。後藤、真田の跡武家にて大侍にあり、紋所も其儘されしといづれを本非といふをしられつ、入にききてもわからす、これハはるか末に召出し扶持せしものとみへるなり。」と。絵図の一は千地蔵堂を画き、説明は大坂秀頼の古碑上町地蔵町の角に地蔵堂あり、秀頼石碑祭と俗にいう。いずれこの地に人々おち下り、身をひそめていたものと思われ、谷山にも古石碑がある。絵図の二は大坂人の塚なりというと説明して、現在の称秀頼墓によく似て描かれ、塚の本に松の大木がかかれている。
……(中略)……
 谷山南麓伊集院家は目代という役目で、鹿児島から秀頼監視のため派遣した格の高い家柄という理由で秀頼の谷山亡命を肯定しており、当時の伊集院家の屋敷は現在の南麓長野家で、広い屋敷をめぐらした石垣は秀頼在世のころのままであるとのこと。又下福元古屋敷は秀頼が薩摩落ちの際、障子川口より舟で古屋敷に上陸し、ここに暫時住まい、のち、木之下へ移つたと伝え、「天下山」という地名もあり、昔より木之下姓も五、六軒あると伝えている。谷山を訪れる観光客は秀頼の墓をたずねることにしているようである。昭和十年ごろ、谷山を訪れた紀行文の大家吉田絃二郎は谷山を訪れ、秀煩の墓だけに参り、記念に伊地知栄二村長、有山長太郎父子、佐多峯太郎校長とともに撮影し、「我が旅の記」の著書の中に、秀頼の谷山亡命を肯定して、名文を一節載せている。その時までは石塔に衣冠の像が刻まれてあると記している。
 谷山市の隣村吹上町中原の旧家宇都家に伝わる木盃ならびに茶碗は、谷山木之下に住んだと伝えられる豊臣秀頼が用いられたもののようであるといわれ、その品の由来書が谷山に寄せられた。
……(後略)……

 江戸時代の真田幸村の子孫

 この天草四郎が豊臣秀頼の子であるという話は、天草地方にも言い伝えがあった。鹿児島外史は、甲子夜話と同様に、こうした当時のゴシップを集めたものであり、必ずしも真実かどうかの確認をとった訳ではなく、その信憑性は保証できない。豊臣秀頼や真田幸村らの薩摩落ちが真田三代記で有名になっていた時に、島原の乱が起こったため、その噂が広がる過程で、豊臣秀頼のご落胤説がつくられていったのかもしれない。その真偽については今もって不明である。時空警察5というテレビ番組ではこの説に基づきドラマがつくられた。完全に否定することもできない。
 上記のように、頴娃村郷土史によると、真田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が、筆者の先祖(瓢左衛門─ひょうざえもん)である。
 この瓢左衛門(ひょうざえもん)の後、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次、菊蔵(2世)と続いた。真江田家は、徳川の世も終わりに近い幕末になって藩主から苗字帯刀を許された。そのとき、先祖真田の名前をもらい、真江田と名のるようになった。江戸時代末期、真江田菊蔵の子供には、市左衛門、難波周八(2世)、三左衛門のほか、数人の女子がいた。
 真田幸村の子孫は徳川幕府に遠慮しながら、江戸時代を通じて一貫して身分を隠して生き続けていたが、幕末も近くになると、いろいろな書物に書かれたことから、幕府も松代真田家の第8代藩主幸貫に尋問した。この時、幸貫は、「往時のことは戦火にて記録焼失して判り申さず」と逃げている。なお、幸貫は、松平定信の2男で、真田家の養子となり、のちに、老中として幕閣にも参加した人物である。
当時の薩摩はまるで独立国家のようで、しかも辺境の地にあり、幕府も容易には手出しができなかった。まして、確証でもない限り、強制捜査などとうていたいできる訳がなかった。大勢に影響がない以上、事を荒だててまで、落武者狩りをすることは得策ではないというふうに、徳川幕府が考えたとしても別におかしくはない。
 幸村直系の子孫である真江田家では、江戸時代から真田の姓を名のろうとしていたが、徳川への遠慮から控えていた。

 真田幸村の墓

 『鹿児島外史』(『島津外史』ともいう)のなかに、「幸村の薩摩落ち」が記されていた。幸村は夏の陣のあと、秀頼を護衛しながら、海路薩摩へ逃れたとしている。鹿児島市内には、秀頼のものと伝えられる墓も残っており、先に述べたように、揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸には、幸村の墓もある。
 揖宿郡山川町(現在は指宿市の一部となっている)では、秀頼が御用金を運び込んで、どこかに埋めているという噂が広がった。後述の為衛門は、この御用金をずっと探し続けていた。幸村の墓の横も穴を掘ったが、何も出てこなかった。このため、幸村の墓の横に穴を掘った跡がある。
 また、昔、真田十勇士が流行っていた頃、大勢の学者や研究者が度々訪れていた。そして、この人たちが、ここにきた印として、小石を一つずつ置いていった。このため、真田幸村の墓に無数の小石が置かれている。
 しかし、真田幸村の墓はあるが、真田幸村がこの地で死んだという記録はなく、墓には何の文字も刻まれていない。真田博明氏によると、このあと、秋田の大館に行ったのだとしており、そういう記録もある。

 真田幸村の末裔(真江田家)

 島津氏は関ケ原の合戦で家康と戦った。徳川幕府は島津のいわば宿敵である。その島津が、じつは秀頼や幸村らをかくまっていたという伝説は、倒幕後、明治になってからやっとおおやけに語られはじめた。
 伝説では、幸村は秀頼亡きあと、さらに南に落ちのびていったとなっている。
 鹿児島県揖宿郡頴娃町には、雪丸という地名が残されている。浄門ケ岳の麓に幸村が住んでいたことから、ここを雪丸と呼ぶようになった。
 頴娃町大字別府字大川には、真江田幸一(故人)が住んでいるが、この真江田という苗字は、真田の2文字の間に江という字を挟んだものである。
 幸一の祖父三左衛門(故人)は、長兄の一左衛門(故人)に実子がなかったことから、次兄の周八(故人)がすでに難波という武家の株を買って、その後、造士館の塾頭となっていた事情もあり、真江田本家として台湾から呼び戻された。
 真江田市左衛門、難波周八(2世)、真江田三左衛門の3兄弟は、明治になってから紋付きと袴のおそろいをつくり、家宝として伝えている。その紋は信州真田の旗印と同じ六文銭である。難波周八は、この他に、幸村から代々伝えられてきた「おねぐい」の鞍、親鷲上人直筆の掛軸等を家宝として持っていた。幸村の遺産はいろいろあったらしい。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜わったもので、「かごどん」(“鹿籠”=枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒飲み比べをして、負けたため、この「かごどん」に取られてしまった。このため、周八は、上京をあきらめてしまった。真田幸村の子孫ということに、ねたみを持つ近辺の人聞によってつけ火(放火)されたこともあった。
 曾祖父・難波周八は、「難波」という武家の株を買い、池田清元衆議院議員(警視総監から京都府警本部長に左遷されたことがある)邸に書生として下宿していた。このとき、周八は、この池田清元衆議院議員から真田幸村が薩摩落ちした時のことについていろいろ聞いた。西郷隆盛よりも10歳くらい後輩で、のちに造士館(現在の鹿児島大学、旧制7高)の塾頭(学長)となった。
 それを引退してから、妻の(荒武)伊勢と共に故郷の頴娃町に帰って、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていたが、造士館の塾頭という経歴に嫉妬した周辺住民による嫌がらせをさけるように、晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧をして暮らしていた。周八の子は、常幸(アメリカのロサンゼルスに移住。兄・秀文が一回目のアメリカ留学の折、訪ねた。その一族から、戦時中は、日系人として収容所に入れられた話を聞いた)、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。いずれも物故。
 幸一の母・フクや父・秀男によると、周八は、背丈が6尺(約180センチ)で筆者の兄の秀文をそのまま背丈だけ高くしたようなかんじで骨太の偉丈夫であった。周八は、73歳まで生き、初孫であった父は、4、5歳位のとき、この周八からいろいろ話を聞いた。
 荒武家は、網元で、かつ、士族であった。伊勢(私や弟に顔が似ている)は、その長女で、弟の長男直澄が荒武本家を継いだ。周八は、資産家であった(荒武)伊勢と一緒になるとき、荒武家がたくさん所蔵していた書物を所望したという。
 周八の弟・真江田三左衛門は、曾祖父・難波周八にって初町役場に紹介されたが、水成川区長と町会議員を兼ねていた。一度は、町議会議長をしたこともある。三左衛門の子は吉村で、その子が幸一である。
 雪丸の田原武雄(故人)元参議院議員(陸軍士官学校第11期生で、戦争中は陸軍中佐で、戦後は鹿児島県農業経済連副会長をしていた)は、戦後間もない頃、父・秀男が青年団長をしていたとき、選挙の際、「同族だからよろしく」と言った。この人も真田幸村の子孫で、父・秀男はこの人からも真田幸村についていろいろ聞いた。その甥・田原鉄可は今も県会議員をしている

 豊臣秀頼の末裔

 木下俊煕氏は、豊臣家18世の末裔であり、「秀頼は薩摩で生きていた」(以前は、谷山市立図書館にあったが、現在は、鹿児島市立図書館に移され、その郷土史コーナーで閲覧できる)という著書まで書いている。その著作の根拠の一つとなったのが、鹿児島市の谷山にある秀頼の二つの墓だ。一つは上福元町にある宝塔で、もう一つはその近くに流れる木之下川の畔にある二基の供養塔である。供養塔がある所は、木下俊煕氏と同じ姓の木下秀城氏の所有地だったところだ。
 揖宿郡山川町(現在は指宿市の一部となっている)より北側に、姫君という秀頼の子孫が住んでいた。この姫君は、鹿児島ラサール高校卒である。姫君の夫・為衛門は、山川町の町会議員を長いことしていた。この為衛門は、もとは刀鍛冶であった。
 山川町では、秀頼が御用金を運び込んで、どこかに埋めているという噂が広がったことがある。いわゆる、御用金騒ぎである。為衛門は、この御用金をずっと探し続けていたが、とうとう見つからなかったという話である。幸村の墓の横も穴を掘ったが、何も出てこなかった。このため、真田幸村の墓の横に大きな穴が開いている。この為衛門という人が、揖宿郡の郷土史に大変詳しかったそうである。
 山川町には、同じく秀頼の子孫で、為義という者がおり、父は、従妹の登志子とともに、この為義のところへ行き、豊臣秀頼、真田幸村らの薩摩落ちに関する話をいろいろ聞いた。
 この為義の長男は、鹿児島ラサール高校卒後、ここの事務員をしていた。
 山川町には、淀君の物ではないかと言われる品があるそうだが、真意のほどは分からない。

 「歴史と旅」に寄稿することになったきっかけ

 私・浜崎秀達は、幼少の頃、父・秀男に真田幸村の子孫と言われたが、真田幸村を全く知らなかった。30歳代半ば頃、弟・秀彰が父に「僕らは親戚を全く知らないので、紙に書いてくれ」と頼んだら、父が家系図を書いてそのコピーを3兄弟に送付してきた。これを契機に、本で調べるだけでなく、いろいろな方面に問い合わせてみた。
 当時、東京都文京区に住んでいた真田博明(真田六文会会長)氏は、総理府定年後、観光のつもりで、真田幸村や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃など)を旅行したが、頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に真江田幸一の家を案内してもらった。そこで、事情をよく知らない幸一は「御本家(難波本家の難波利幸=難波周八の末子)に聞いてくれ」と言った。私が学習院のOB名簿に載っている真田家(旧伯爵家)当主・真田幸俊氏にも家系図を送ったら、当主ではなく真田博明氏が、幸一では埒があかなかったとして、総帥家(浜崎本家の浜崎秀男=難波周八の初孫)の私の勤務先に来て、いろいろ話をした。また、家系図については、過去帳を調べるよう言われたので、難波昌幸に依頼している。なお、真田博明氏から、真田一門の系図や鹿児島の古文書「薩摩風土記」などをいただいた。
 そのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」で放映することを教えてくれた。平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本における3大英雄不死伝説の一つとして、真田幸村の薩摩落ちが紹介された。1分間ほど真江田幸一が登場した。そのとき、一緒に移っていた女性を妻・フクとしていたが、フクは幸一の母親であり、妻はのり子である。
 斎藤吉見(作家)氏も、頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に真江田幸一の家や真田幸村の墓を案内してもらった。この取材に基づき、「真田60万両の疑惑」という小説を書いた。昌彦叔父が江東区の図書館でこれを見つけ、私に教えてくれた。そこで、
 なお、真田博明氏も斎藤吉見氏も昨年(平成17年)亡くなった。
斎藤吉見氏と情報交換しようと資料を送付するとともに、この小説を頂いた。
 出版社からも情報を得ようと、本屋でそうした雑誌を捜して、「歴史群像」(新人物往来社)と「歴史と旅」(秋田書店)に資料を送付としたら、「歴史と旅」の編集者から「我が家系を語る」というコーナーがあるので、原稿を書いてくれ依頼された。早急に原稿を書いて送るとともに、父・秀男が鹿児島に行き、真田幸村の墓などの写真を撮ってきて、桜島の写真とともに送った。こうして、「歴史と旅」(平成6年3月号)秋田書店刊に掲載された。

 「真田幸村の墓」を見に行く

 この後、平木場太(父・秀男の再従弟)に鹿児島の資料を捜してくれるよう依頼したところ、鹿児島外史、薩藩旧記、谷山市史、頴娃村郷土史、頴娃町史などの写しを送ってくれた。鹿児島外史は漢文であり、薩藩旧記は鹿児島の古文であるため、小林計一郎氏に解読をお願いしたら、弟子を使って解読してくれたが、平木場太おじさんが違うところをコピーしてきたらしく、役に立たなかった。
 その後、私も鹿児島に行き、親戚の者の案内で、真田幸村の墓などの写真を撮って来た。まず、知覧の特攻平和記念館に行き、写真をとってきた。当時は、館内での写真が禁止されていなかった。次いで、知覧町役場に行き、平木場太(父・秀男の再従弟)知覧町助役と会談し、さらに近くのレストランで会食した。翌日、頴娃町雪丸にある真田幸村の墓に行った。真田幸村の墓は、田原武雄氏の所有する山林の中にある。私は、その妻・文子さん宅に挨拶してから、山に入り、真田幸村の墓のところに行った。次いで、開聞町(現・指宿市)の池田湖に行き、イッシーや大鰻を見て、写真も撮った。
この後、私は、自分が何者か、どこから来たのか分からないので、自分のルーツを知りたくなった。両親が亡くなる前後に、真田幸村も含め親戚全般を調べた。
 「歴史と旅」への寄稿後、親戚にも本やそのコピーを送った。真田幸村の墓の写真も送った。頴娃町教育委員会には、これらに加え真田幸村の薩摩落ち関係の資料を送った。6年くらいして、頴娃町教育委員会からそのコピーを手に入れた観光協会の企画委員長から講演依頼の手紙が来たが、多忙を理由に断った。川中島の合戦がNHKKの大河ドラマでやった後、当地で観光施設をつくったが、あまり観光客がきていないことを知っていたので、これを教え、マーケティングをしっかりするよう助言の手紙を返信した。それと合わせ、真田七文会のメンバーに資料を送信したところ、新村功氏(ハンドルネーム=孔明)がホームページ(kamomax探偵事務所)に載せたいとのことだったので、許可した。
 本年(平成18年)3月、これを見た長野の上田という方が、勤務先にしつこく誹謗・中傷の電話をかけてきました。長野の真田幸村死亡説派の横暴さに憤慨した。一方的に決めつけ、初対面の人間にあく言雑言を浴びせる非礼ぶりに、私はつい怒鳴りつけてしまいました。インターネット上で、真田幸村生存説も真田幸村死亡説も確証を欠き、どちらが正しいとも言えないことを伝えることにした。

by 浜崎秀達 (2006-05-19 11:08) 

mimipon

>浜崎秀達さん
興味深く読ませていただきました。
コメントのあまりの長さに驚きましたが(^^;)
自分のルーツが分かったら面白いでしょうねぇ。
うちは御先祖さまとか全然知らないので。
by mimipon (2006-05-20 11:43) 

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